あなた本意の家づくり

釧路の設計事務所、一級建築士事務所 設計処櫻のブログ

キャリア…時代の流れって恐ろしい(笑)

ワタシが「建物の設計」という仕事を始めてから、かれこれ33年…時の経つのは早いものです。

釧路で生まれ釧路で育ち、高専を卒業して東京へ…というか、最初は就職先の寮がある千葉県民になりました(笑)

 

初めての就職

20歳で入社した会社は(株)トーヨーサッシ。今でいう(株)TOSTEM…いえ、LIXILと言った方が知っているかと思います。

 当時は、サッシやユニットバス、キッチンを独自に開発販売していた会社だったと記憶しています。研修を終えて配属されたのは、当時導入されたCADシステムの部署で、業務内容はCADの社内インストラクター。仕事は社内マニュアルを作ることからでした。

余談-お茶くみ-

今では考えられないことかもしれませんが、当時、総勢50名ほどの部署のお茶くみは女子社員による当番制で、10時と15時に「何を飲みたいか」のオーダーをとり、各自のカップに入れて配るという儀式的なものでした。新入女子社員の最初に覚えることは、どのカップが誰のものか…そいうもので、2年目ともなれば、部長は熱いお茶、課長はぬるめのお茶などの好みも覚えるような…そんな風習がまだ有った昭和の時代です(笑)

未だパソコンが一般的では無く、設計各所ではドラフターで図面を書いていた時代、慣れないワープロを使って文章を打ち、図を描いて…切って貼って(笑)と、大変だったけれど、それなりにやりがいがある仕事でした。

この時、同期入社の女の子と一緒に仕事を進めていたのですけれど、その彼女に「なんでそんなに一生懸命に仕事をするの?」と言われ戸惑った思い出があります。ワタシは作業が楽しくてキリの良いところまで残業することも苦では無かったのですけれど、多分、彼女にとっては、それが迷惑なことだったのかもしれません。翌年、彼女は結婚するために会社を辞めていきました。

作成したマニュアルを使って社員への講習をしたのですが…現在の私くらいの年齢のマネージャークラスを相手にすることも多く…21歳のワタシには遣り甲斐はあれど…とても難しい業務でしたし、同僚の結婚退社で異動になってきた1年先輩の女性とはあまり合わず…心には「建物の設計がしたい…」という思いが募っていきました。

ファミコンが発売されて2年程の時代…ドラクエにはまっていたワタシです(笑)

 

転職

初めての就職2年目。設計事務所への憧れがフツフツと湧いてきて、会社を辞めることを決めました。そして、就職情報誌による転職活動が始まりました。

1社目×

面接で「明日から来て」と言ったのは、50代の所長+30代の所員1名という小さな設計事務所。翌日行ったところ「お茶を…」と言われ、入れたお茶に「熱い」と言われ、美味しいお茶とは…を語られ、その日に辞める意思を伝えました(笑)

2社目×

次の事務所は、各自顧客を持つフリーの建築士が数人集まって事務所を構えているというところ。面白いコンセプトでしたけど…試しで通った数日でギブアップ。朝事務所へ行くと、徹夜したのかソファーに寝てる人…その横には山盛りの灰皿と空いたカップ…それを洗うことから始めなければならない毎日は耐えられそうにはありませんでした(笑)

3社目○

今度は、女子社員が辞めるので、その代わりの採用…ということで、お給料は10万円。この収入で生活できるかできないかは別として、当時の給与としては凄く少ない…というわけではありません。50代の所長以下、若い所員が2人の東京の事務所と若い所員が2人の神奈川の事務所がある、事務所ビルや商業施設、分譲マンションを手掛けている設計事務所。なんとなく…ここに決め、その後3年間ほど勤めることになります。

前任の仕事は雑務がメインだったそうですが、ワタシはそれに加えて設計見習いとしての仕事もあり…というか、すぐにそちらがメインになっていきました。実務的には全くの素人だったワタシですが、先輩や所長が色々と教えてくれ、当時はまだ時間の流れがゆっくりだったこともあってか、吸収することはとてもたくさんありました。残業は当たり前、でも残業代は殆どゼロという…今でいうところのブラックでしたけれど、それが当時の設計事務所では当たり前という感じでしたから仕方ありません。

色々な「初めて」を経験させてくれた、今のワタシの基礎となった事務所です。

この時代、ファミコンディスクシステムでポートピア殺人事件を楽しんでいた記憶が…(笑)

 

設計から離れた数か月

それでも…私生活でも色々あった23歳…そんな毎日に疲れてしまい転職を考えます。なぜか設計からも離れたくて、不動産会社や飲食店でアルバイト。

これはこれで楽しかったし、アルバイトなのに給料もUPした数か月(笑)

それでも…時が過ぎればすぎるほど、やっぱり「建物の設計」が恋しくなる。ということで、そこからまた就職活動をはじめます。当時はバブル…求人はたくさんありました。

 

戻ってしまった建築業界

1つの求人に目が留まりました。

給料18万円以上、社会保険あり、勤務時間10:00~18:00

そして勤務地はお洒落な広尾!!

そんな設計事務所があったのか?!(笑)ということで面接に行くと、そこには少し先輩の女性建築士がいたり、所員もほぼ同世代が数人と、なんとも楽しい雰囲気で、しかも、企画と基本設計はするけれど、実施設計と構造、設備はすべて外注なので、時間的拘束が以前のそれとはまったく違うという感じ。ワタシとしては即決です(笑)

結局のところ数年勤め、小さいですが分譲マンションを4棟手がけました。お給料も順調に…入所したとき+10万円ほどUPしていました。

とても楽しい事務所でしたが、外注部分が多く楽な分、なんだか…つまらない(笑)若い所員が多かったことも有って入れ替わりも激しく、なんとなく落ち着かない雰囲気もあり…吸収することも少なくなり…どうしたものかと思い始めていました。

この時代、未だインターネットは普及しておらず、パソコン通信なるものが流行っていました。課金や電話代が嵩んで大変だった人も多かったようです。

 

ヘッドハンティング

そんな時、その事務所で依頼していた設計事務所の人から声を掛けられます。なんでも、役所とのやりとりの迫力に魅力を感じたようでした(笑)

その事務所がちょうど事務所を移転するとのことで、偶然にも自宅に近かったこともあって、それに合わせての入所を決めました。

もちろん、給料もUP。最初に就職した設計事務所の3倍以上…バブルの影響もありましたけど、我ながら凄いなぁ…と感じたものでした。

この事務所は、主に大小のデベロッパーをクライアントに持ち、分譲マンションやリゾートホテル、商業施設などを手掛けている事務所で、事務所内に構造設計もありましたから、とてもスムーズに設計業務を進められる環境だったと思います。

この事務所では、大手デベロッパーに高評価を頂いたり、逆にコンペで悔しい思いをしたり…所長のお供でしたけど銀座のクラブを初体験したり(笑)

そして経験として大きかったのは、バブル崩壊

当時、私が担当していた分譲マンションの設計は、プランから竣工まで2~3年スパンくらいのものが多かったのですけれど。川崎市内で駅から徒歩15分、RC造の投資用ワンルーム20m2の販売価格が3000万円を超えていた(それでも売り出し後即完売)2年後、東京23区内JR駅から徒歩5分のSRC造3LDK60m2が3800万円台で販売されたときには本当に衝撃を受けました。もちろん、こちらも即完売。

土地の価格もそうですが、鉄筋や鉄骨などの価格、職人さんの人件費が半分以下になったケースも有りました。

 当然、仕事は減り…皆苦しい中、バブル期の時には「そんな小さな建物は地場の工務店に依頼しなさい」と言っていた大手施工会社営業が「小さな建物でも良いので見積もらせてください」と言ってきたり…を見ていると人間不信になるものです(笑)

私が経験した中には…大手施工会社が地場の施工会社の下請けに入っていた…ということも有りました。さすがに表立っては会社名を出してはいませんでしたけれど。

そんなこんなで…事務所の仕事自体も減り、100万円だった冬のボーナスは翌年には0になっていました。

時代で言えば…やっとインターネットが普及してきた頃でしょうか…。

それでも、まだまだ手描きの図面が多かった時代。

マッサージを受けると「腕がこってますね~何の仕事をしてるんですか?」ってよく言われたものです(笑)

 

釧路へのUターン

そんな時、私生活でも色々とあり事務所を辞め、父親が病気になったこともあって釧路にUターンしました。帰ってきてからは、宅地建物取引主任者(現宅建士)をとり、東京にいたころには実務が忙しくて受けることさえ出来ていなかった一級建築士を取得し…その間はパチンコで小遣いを稼ぎながら家業を手伝ったり父の看病をする…という生活を過ごしていました。

そして2001年10月、35歳の時に一級建築士事務所設計処櫻を開設しました。

あ…来年、事務所登録の更新です。開設20年…周りの方々に助けてもらい、お客さまに声を掛けて頂くことで、細々とですが続けてくることができました。

その間、若い従業員を雇用したこともありましたけれど、東京にいた頃の設計事務所の所長の大変さが分かった気がします。務めているときには責任も中途半端というか、好き勝手なものですよね。自分でも昔の自分をそう思います。(笑)

 

いままで と これから

東京にいる頃は一般の住宅は少なく、RC造やSRC造の分譲マンションやS造の事務所ビルなどが主な仕事でした。それらは、今でもそこに建っています。先日…ちょっと気になってグーグルアースで覗き見してみました。便利な世の中です(笑)

分譲マンションは、もちろんオートロックですから、管理組合に渡ると設計者でも勝手に入ることはできないので…とってもつまらない。それでも、外観のデザインを考えながら、いかに容積を確保し専有率を上げるか…というところが腕の見せ所。それはそれで楽しい仕事ではあります。

都会では土地が高価なので、それを有効利用することが求められます。

しかし、ここ釧路では土地が安価なので、(賃貸ですが)マンションを考える時も容積をあげることよりも戸数分の駐車スペースの確保に難儀します(笑)

土地が安価な分、木造住宅を持つことが一般的。

もちろん、RC造の賃貸マンションやS造の店舗や事務所、介護施設、工場などの仕事も有りますけれど、この木造住宅こそワタシがやりたかった仕事です。

実は、実家は工務店を営んでいて父は大工でしたから、初めて方眼紙に住宅のプランを描いたのは7~8歳のころ。父曰く「2階への階段がちゃんと登れた」ことに感動したらしいです(笑)

なので、今もプランニングの始まりは方眼紙。アナログなワタシです^^;

しかし、時代の流れも有ってか、求められるのはスピードだったり多くのCGパースだったりしますから、仕上はどうしてもプランニングソフトを使うことになります。もちろん、模型での提案もしますけど、模型とパースを合わせることでお客さまには、より理解してもらえるのではないかと思います。

図面とスケッチだけで想像するしかなかった頃に比べると随分と分かりやすくなったように思います。お客様自身でスマホからでも色んなデザインや資材を調べられる時代ですけれど、それでも、その組み合わせや出来上がる最終形までは想像が及ばないところも有るようです。そこをより好みに近づくようにサポートするのもワタシの大切な仕事。

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先日、足場が外れた外観を見たお客さまから「想像以上にカッコいい」という言葉と「自分で選べと言われたら絶対に選ばないサッシの色だったけれど、でき上ったのを見るとこの色が良かったと思いました」という言葉を頂きました。素直に嬉しかったです。

樹脂サッシの色には限りがあるし、きっと、どの色を合わせてもそれなりに合うのだろうけれど、お客さまの好みの方向性に合わせるチョイスが大切です。

これぞ経験がなせる業なのかもしれませんね。

そんな経験を積みながらも、時代の流れの中で…手描き→CADへ、FAX→メールやリモートへ…など「新しいもの」を覚えることに必死だったし、それはきっとこれからも続いていくのでしょうし、あと何年、こういう風にお客さまと一緒に素敵な仕事ができるのか分かりませんけど、この先も同じスタンスで頑張って行けたらと思っています^^

多くの人が自分の理想のお家に住めますように…。 

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